2024年10月11日、声優の大山のぶ代さんの訃報を受け、ネットやSNSでは多くのファンによる追悼の言葉で溢れています。
「ドラえもん」や「サザエさんの初代カツオ」の声などを務め、声優界のレジェンドとして慕われてきた大山さん。
波乱万丈の人生には、家族の支えが大きかったようです。
そこで今回は、大山のぶ代さんの家族である旦那(夫)や子供を調査。
そのエピソードなども調べました。
ぜひ、最後までお付き合いください。
大山のぶ代の家族は、旦那・砂川啓介で子供はいる?
大山のぶ代さんの旦那は砂川啓介(さがわ けいすけ)さんですが、2017年に80歳で死別しています。
大山さんと砂川さんはオシドリ夫婦として有名で、二人で過ごした時間は大山さんの人生観や人間関係に大きな影響を与えました。
大山のぶ代と夫・砂川啓介との馴れ初めやエピソード
大山のぶ代さんは1964年、砂川啓介さんと結婚。
二人の馴れ初めや結婚エピソードを見ていきましょう。
馴れ初めは舞台の共演
その頃の砂川さんは、NHKの朝の幼児番組『うたのえほん』に初代体操のおにいさんとして出演。
そんな当時の様子を伝える記事では。
『うたのえほん』は驚異的なまでの人気を誇り、視聴率40%を記録することも。
いつしか、三角帽子にピタピタのコスチュームで踊る僕は、子供たちだけでなく母親や若いOLからもアイドル並みの人気を集めていた。
同時に歌手、俳優としても少しずつ活動を始めた頃だった。
共演した「孫悟空」では、主演・砂川さん、その恋人役が大山さんというキャスティングで二人とも「サル」の役柄だったようです。^^
初対面の印象は…イマイチだった
砂川さんは、大山さんの第一印象をあまりよく思っていなかったようです。
カミさんは僕をまったく知らず、「蕎麦屋の出前のお兄さん」だと思い込んでいたというのだ。
しかも、小柄で筋肉質だった体型からなのか、それとも少し軟弱な雰囲気がしたからなのか、僕のことを「オカマ」だと勘違いしていたのだというから、心中穏やかじゃない。
運命の赤い糸を感じた瞬間があった
砂川啓介さんと大山のぶ代さんが、運命の赤い糸で結ばれた瞬間があるそうです。
それは、舞台「孫悟空」で稽古の休憩中のこと。
買い物をするため、砂川さんが運転する車に大山さんが同行したときの出来事です。
中学を卒業後に上京してきたばかりという風情の15〜16歳と思しき少年二人組が、ガラの悪いチンピラ男に絡まれていたのだ。僕は気の毒だと思いながらも、その場を通り過ぎようか悩んでいたとき、彼女の声が響いた。
「ねえ、あの子たち、助けてあげない?」
二人のチームプレーが成功し意気投合。
結婚後は自他ともに認めるオシドリ夫婦
大山のぶ代さんと砂川啓介さんは、「オシドリ夫婦」と言われるほど仲が良く、周囲から嫉妬されるほどでした。
二人は子供はおらず、その経験が二人の関係をより強固にしました。
1979年から2005年まで26年間、「ドラえもん」の声を担当した大山さん。
砂川さんは、その知らせを聞いて「ああやっぱりか…」と思ったと答えています。
2008年4月に脳梗塞で緊急入院した大山さん。
その後から徐々に生活面で不可解な行動が増えるようになったそうです。
- 灰皿が何に使うものなのか分からなくなり「啓介さん、これ、なぁに?」と発言。
- ヘビースモーカーだったのに、突然タバコに関心を示さなくなった。
- 料理好きの大山さんが、鍋の空焚きで火事寸前にもかかわらず、横で野菜を切り続けていた。
- 食事中「おいしい」と言っていたのに、食後に「まずかった」と言い出す。
- 書類保管用の引き出しに、料理が詰まった容器を保管していた。
- 電気つけっぱなし、服を裏返しに着ても気にしない、などなど・・・
その後も症状は進行し、周囲の迷惑を顧みず大声を出したりと、他人を巻き込むようになっていったようです。
次第に、会話かかみ合わなくなり、つい怒鳴ってしまうことも増えていくことに。
その都度反省と自己嫌悪に陥る日々を送った砂川さんはこのように語っています。
僕と同じように深く苦悩している人もいたが、前向きに介護に取り組んでいる人だってたくさんいる。
なのに、なぜ僕は前向きな気持ちになれないのだろうか。
「相手に対する愛や尊敬の念があれば、介護は乗り切れる」
砂川さんは、介護の厳しさを語りながらも、愛情を持って大山さんを見守り続け、時には自己嫌悪に陥りながらも、優しさを忘れずに接することの重要性を認識していきました。
このような夫婦の絆は愛情の深さを物語っており、困難な状況でも互いに支え合う姿勢が国民の胸を打ちました。
介護を続ける2016年、砂川啓介さんには尿管がんと診断。
自宅での介護が困難となり、大山さんは介護施設に入所します。
大山さんが砂川さんに遭ったのは数日後の葬儀所でした。
棺の中を見て、「お父さん……」と言い、涙をこぼした。
すぐに棺から離れ、出口の方へ歩き出し、マネジャーが「帰るの?」と問うと、「帰る」と言い、その場を去った。
オシドリ夫婦だった大山さんと砂川さん。
大山のぶ代は、2度の子供との悲しい別れを経験
7か月目で死産
最初の妊娠は、大山さん32歳の時でした。
その時の様子を、砂川啓介さんが著者の書籍「娘になった妻、のぶ代へ」で語られています。
最初の妊娠は、結婚直後――。ペコ(大山のぶ代さんの愛称)が32歳、僕が29歳のときのことだ。
もともと子供が大好きだった僕は、カミさんの妊娠報告が嬉しくて仕方なかった。
その事実を知らされたときの興奮といったら、世界中に「俺とペコに子供が生まれるんだぞ! 俺は父親になるんだ!」と大声で叫びたいほどだった。だが、その喜びは露と消えた。妊娠7ヶ月を迎えた頃、カミさんが突然、破水したのだ。
病院が夜間対応で受付までに30分以上待たされた後に診療。
医師からこう告げられます。
「本当に残念です。死産です。男の子でした……」
医師の声が僕の胸に、こう冷たく響いた。
この時、砂川さんは悲しみに暮れる大山さんを気遣い「かける言葉が見つからなかった」と答えています。
生後3か月で死別
悲しい別れから7年後、38歳になった大山さんは新しい命を授かります。
週刊誌には、「体操のお兄さんに赤ちゃんが!」というタイトルが誌面を賑わしました。
当時の大山さんの様子も書籍の中に描かれています。
「今度こそ無事に、元気な子を産みたいわ」
そんな思いから、このときのカミさんは、用心しすぎるほど用心を重ねた。
すべての仕事を休み、大事を取って何度も入退院を繰り返したのだ。
以前の悲劇を繰り返さないように、慎重に経過を見守る砂川さんは語ります。
カミさんが再入院し妊娠7ヶ月を一週間ほど過ぎた頃、仕事場にいた僕の元に入った、病院からの一本の電話。
「今しがた、赤ちゃんが生まれましたよ!」
「えっ? 予定日は確か3ヶ月先のはずですけど……」
電話口でそう首をひねりながらも、僕は状況が飲み込めないまま、病院に一目散に走った。
早産だった――。
病院で出会ったのは、顔さえハッキリと見えない、小さな小さな女の子。
小さな保育器の中に、さらに小さな僕らの娘が眠っていた。
生まれた娘は絵梨加さんというお名前で、大山さんが字画も考えて名付けました。
そのわずか3か月後、突如として幼なくて小さい命の灯が消えることになります。
寒さが身にしみる12月のある日。僕が病院に行くと、先に訪れていたカミさんが廊下で正座し、保育室の窓に向かって手を合わせて祈っている。僕は背筋に激しい悪寒が走り、血の気がサッと引いた。
~《中略》~
絵梨加の死因は、心臓と肺の先天性疾患だった。
娘の死という悲しい現実に追い打ちをかけるように医師が告げます。
「次に妊娠したら、母体が危ないです」
この深い悲しみによる心の傷は、大山さんの日常生活や精神的な健康に影響を及ぼしたようです。
そのような妻を見て、砂川啓介さんは心に誓ったそうです。
この先どんなことがあっても、彼女と一緒に人生を生きていこう。彼女を苦しめるものがあるなら、僕も一緒に闘おう、と。
こう誓った砂川さんは、常に悲しみに暮れる妻のそばに寄り添い、理解し、支え続けます。
大山のぶ代は晩年、親族や友人に支えられて生活
2012年秋、大山のぶ代さんはアルツハイマー型認知症と診断され、人生が一変しました。
旦那の佐川啓介さんは、大山さんの病状を受け入れるのに時間がかかったと言います。
献身的な介護で妻を支えた佐川さんが2017年に亡くなった後の晩年、大山さんは老人ホーム過ごし、親族や友人の支援を受けながら生活を送りました。
昭和・平成・令和と長きにわたり多くのファンに愛された大山のぶ代さん。
今頃は、夫婦水いらずで昔話に花が咲いて盛り上がってる頃かもしれませんね。
最後になりましたが、謹んで心からお悔やみ申し上げます。